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フランケン

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

フランケン
Franken
ドイツ中南部の歴史的地方名。中世初頭は,フランク王国の範囲をいい,マイン川流域およびライン川中流域が含まれた。 12世紀からは,マイン川流域の東フランクの地のみをいうようになった。この地方はキリスト教会の勢力が強く,マインツ大司教区,バンベルクならびにウュルツブルク司教区に属した。 19世紀初頭,ナポレオン1世の行政改革により,バイエルン王国,ウュルテンベルク王国およびバーデン大公国の一部に分割された。現在のフランケン地方は,1837年バイエルン国王により上中下の3行政区に分割された現バイエルン州北西部をいう。肥沃な農耕地が多く,ワインの特産で知られる。

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フランケン
Franken
ドイツ中世における部族公国の一つで,マイン川流域を中心とする。 843年のベルダン条約後,東フランク王国の中核をなしたが,内部分裂から 939年部族公国は消滅し,東フランケンと西フランケン (ライン=フランケン) に2分された。 11世紀にいたり,西フランケン出身のザリエル家コンラートにより,フランケン公の称号が再興され,同公はザクセン朝ハインリヒ2世の死後を受けて,1027年神聖ローマ皇帝コンラート2世となり,フランケン朝 (またはザリエル朝 ) を創始した。ここにフランケン公の称号そのものはドイツ皇帝の手中にあったが,東フランケンではウュルツブルク司教が最も有力であり,1168年以来,同司教が東フランケン公とみなされた。しかし公的な承認は,15世紀初頭の司教ヨハン2世のときであり,東フランケン公の称号は,1802年同司教領が世俗化されるまで続いた。またフランケンの名称は,ハプスブルク家のマクシミリアン1世が,1512年に帝国を 10の管区 (クライス) に編成した際,旧フランケン地域に与えられ,さらに近代では,1837年バイエルン公ルートウィヒ1世により領土の最北部分に上,中,下フランケンの名称が与えられた。

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世界大百科事典 第2版

フランケン【Franken】
ゲルマン人の部族名。また中世ドイツの歴史的地域名。ゲルマン人の一部族としてのフランケン(フランク族。ラテン語ではフランキFranciで〈自由な人〉〈勇敢な人〉の意)はライン川とウェーザー川の中間地域のゲルマン諸族(カマウィ,ブルクテリなど)の呼称として3世紀中ごろから使用された。民族大移動期に定住地域は北ブラバントから西はフランドル,北海沿岸まで,南はモーゼル・ライン川地方まで広がり,多数の小王国をつくった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

フランケン
ふらんけん
Franken
ドイツ中部の地方名。マイン川中・上流域の地方をさし、東はチェコ国境、西はライン川に達する。民族移動期には、チューリンゲン人とアラマン(アレマンネン)人の抗争の地であったが、6世紀ごろ西方からフランク人が進出・定着して、720年ごろフランク王国に編入された。8世紀以来、東フランクFrancia Orientalisの呼称が用いられている。カロリング王朝断絶(911)ののち、ここにフランケン公国がつくられ、コンラディナー家が公位を得たが、一時的なもので、オットー1世は939年これを解体し、東フランケンとライン・フランケンに分けた。
 前者ではウュルツブルク司教が大部の領地を領有して圧倒的優勢を誇り、1168年皇帝フリードリヒ1世は同司教にフランケン公の称号を贈った(1802年まで存続)。後者ライン・フランケン地方を領有したザリエル家は、1024年コンラート2世のとき国王となり、ザリエル朝(またはフランコニア朝)は1世紀間存続した。しかし、その断絶後、家領は四分五裂し、中小貴族の台頭を促した。すなわち、アンスバッハ、バイロイト各辺境伯、カステル、ヘンネベルク、ホーエンローエ、ライネック、ウェルトハイム各伯領をはじめとして、無数の帝国騎士、帝国直属村落が乱立し、これにウュルツブルク、バンベルク、アイヒシュテット各司教、フルダ修道院、ニュルンベルク市、ローテンブルク市などが加わる。
 1500年皇帝マクシミリアン1世は、帝国改革の一環として全国土を10地区に編成したとき、前記の諸領主をフランケン地区として包括し、ここに文化的・社会的共通意識が醸成されることになった。1815年のウィーン条約の結果、フランケンの大部分はバイエルン公国に帰し、今日、バイエルン州の北部部分をなしている。農耕、家畜飼育が盛んで、とくに美味なぶどう酒を産出する。工業では織布、製陶が目だつ程度。多くの文化財に恵まれ、清澄な自然環境と相まって、有数の観光地域となっている。[瀬原義生]

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