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ノモンハン事件【ノモンハンじけん】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

ノモンハン事件
ノモンハンじけん
1939年,モンゴルと満州 (中国東北部) との国境地区で起った日本軍とソ連軍の大規模な衝突事件。結果は,日本軍の惨敗に終った。ノモンハン満州国の西北部にあり,外モンゴルとの国境が不明確な,国境紛争の発生しやすい地帯であった。5月 11日,ノモンハン付近で満州国警備隊と外モンゴル軍が交戦したのが事件の発端になった。参謀本部と陸軍省は当初から事件不拡大の方針をとったが,現地の関東軍は中央の意向を無視して戦闘を続行,拡大し,外モンゴルとの相互援助条約に基づいて出兵したソ連軍と激戦を展開した。7月 17日の5相会議では不拡大方針と外交交渉開始が決定されたが,交渉の開始が遅れているうちに,8月下旬にはソ連機械化部隊の大攻勢が行われ,日本軍は大敗し,第 23師団は壊滅した。8月 23日,独ソ不可侵条約が締結され,9月3日にはヨーロッパで第2次世界大戦が勃発するなどの情勢下で,日本政府は東郷駐ソ大使に停戦交渉を行わせ,9月 15日の東郷大使とモロトフ外務人民委員との会談で停戦協定が成立,16日に共同声明が発表され,ノモンハン地方の国境線が画定されることになった。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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朝日新聞掲載「キーワード」

ノモンハン事件
日本の傀儡(かいらい)国家だった旧満州国(現・中国東北部)と旧ソ連の影響下にあったモンゴル人民共和国(現モンゴル)の国境紛争。1939年5月11日に起きた小競り合いがエスカレートした。ソ連側が8月20日に大攻勢を開始し、日本側の退却で9月16日に停戦が成立。死傷者は日本側2万人、ソ連側2万6千人とされ、対米開戦に至る日本の「南進政策」の一因にもなった。紛争を拡大させた関東軍参謀の責任は事実上問われず、中心にいた参謀たちは、太平洋戦争では大本営作戦課の課長や参謀としてガダルカナル作戦インパール作戦を指導した。
(2014-07-08 朝日新聞 朝刊 1社会)

出典:朝日新聞掲載「キーワード」

デジタル大辞泉

ノモンハン‐じけん【ノモンハン事件】
昭和14年(1939)5~9月にノモンハンで起こった軍事衝突事件。満州国モンゴル人民共和国の国境で勃発した両国警備隊の交戦をきっかけに、満州国を支配していた日本と、モンゴルと相互援助協定を結んでいたソ連がそれぞれ軍を投入。大規模な戦闘に発展した。日本の関東軍大本営の方針に反し独断でソ連領内へ戦線を拡大したが、ソ連の充実した機甲部隊によって壊滅的な打撃を受けた。さらに、日本と同盟関係にあったドイツがソ連との間で独ソ不可侵条約を締結し、ソ連の兵力増強が可能となったため、大本営は作戦中止を決め、9月16日にモスクワで停戦協定が結ばれた。ロシアではハルハ河事件、モンゴルではハルハ河戦争と呼ばれる。

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世界大百科事典 第2版

ノモンハンじけん【ノモンハン事件】
満州国とモンゴル人民共和国の国境ノモンハン付近でおこった日ソ両軍の大規模な武力衝突事件。ノモンハン一帯の国境問題は日ソ間に係争中で,日本側はハルハ川を,ソ連側はその北方のノモンハン付近をそれぞれ国境と主張していた。1939年関東軍は隷下部隊に〈満ソ国境紛争処理要綱〉を示達し,国境紛争ではソ連軍を徹底的に膺懲(ようちよう)せよとの方針を示した。たまたま同年5月12日ノモンハン付近でハルハ川を越えた外蒙軍と満州国軍が衝突した。

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大辞林 第三版

ノモンハンじけん【ノモンハン事件】
1939年(昭和14)5~9月、中国東北部とモンゴル国との国境に近いハルハ河畔の地ノモンハン(Nomonhan)で起こった、日本とモンゴル軍の衝突事件。ソ連軍の応援により日本軍は大敗し、対ソ開戦論は後退した。ハルハ河戦争。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

ノモンハン事件
のもんはんじけん
1939年(昭和14)「満州国」とモンゴル(外蒙古(もうこ))の国境ノモンハン付近で起こった日ソ両軍の大規模な武力衝突。ノモンハン付近の国境について、日本側はハルハ河を、ソ連側は北方ノモンハン付近をそれぞれ国境と主張し、かねてより係争中であったが、関東軍は1939年(昭和14)4月隷下(れいか)部隊に示した「満ソ国境紛争処理要綱」において、紛争に際してはソ連軍を徹底的に膺懲(ようちょう)せよとの方針を決定した。たまたま5月12日に、ノモンハン付近でハルハ河を越えた外蒙軍と満州国軍が衝突する事件が起きた。ハイラルの第23師団長小松原道太郎中将は、関東軍の先の示達によりただちに部隊を出動させ外蒙軍を一時撃退したが、ソ連軍は外蒙軍に加わって反撃した。報告を受けた関東軍司令部はソ連軍撃破の強硬策を決定し、航空部隊による外蒙の後方基地爆撃に続いて、7月2日第23師団が攻撃を開始した。しかし日本軍はソ連軍の優勢な火力と戦車の反撃を受けて苦戦に陥った。日中戦争の最中にあって、事件がさらに日ソ戦争に拡大することを恐れた大本営は不拡大方針を決め、政府も事件の平和的解決の方針を定めた。しかしこれを無視した関東軍は7月23日、攻勢を行い、これに失敗後もなお兵力の増強を図り、第三次攻勢を準備した。一方、ソ連軍は国境線回復のため8月20日から狙撃(そげき)・戦車両師団の大兵力を集中した総攻撃を開始し、日本軍は第23師団壊滅の大敗を喫した。おりから9月1日ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)したため、大本営は攻撃の中止と兵力の後退を厳命し、モスクワにおける交渉妥結を急ぎ、9月15日モロトフ外相と東郷茂徳(しげのり)大使の間に停戦協定が調印された。軍中央は敗戦の責任により関東軍の植田謙吉(けんきち)司令官と磯谷廉介(いそがいれんすけ)参謀長を予備役に編入したが、参加部隊では責任をとって自決する部隊長が相次いだ。事件の敗北は、陸軍の対ソ開戦の企図に重大な打撃を与えた。[鈴木隆史]
『防衛庁戦史室編『戦史叢書・関東軍(1)』(1969・朝雲新聞社)』

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