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サルトル

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

サルトル
Sartre, Jean-Paul
[生]1905.6.21. パリ
[没]1980.4.15. パリ
フランスの哲学者,文学者。実存主義の代表者,行動する知識人として著名。 1925~29年エコール・ノルマル・シュペリュール (高等師範学校) に学び,同学のシモーヌ・ド・ボーボアールと結ばれる。 1931~43年各地のリセ (高等中学校) で教えた。その間 1933~34年ドイツのベルリンに留学してエトムント・フッサールやマルチン・ハイデガーを学び,意識構造の現象学的解明に努め,その思想は 1943年人間の根源的自由を強調する『存在と無』L'Etre et le néantに結晶。 1939年応召,1940~41年捕虜。釈放後抵抗運動でその哲学を実践。 1945年月刊誌『タン・モデルヌ』 Les Temps Modernes創刊。硬直したマルクス主義哲学を批判しながらやがて共産党の強力な支持者となり,みずからも政治活動に積極的に参加。 1960年『弁証法的理性批判』 Critique de la raison dialectiqueを出す。 1964年ノーベル文学賞を辞退。小説『嘔吐』 La Nausée (1938) ,『自由への道』 Les Chemins de la liberté (1944~49) 。戯曲『』 Les Mouches (1943) ,『悪魔と神』 Le Diable et le Bon Dieu (1951) 。評論集『状況』 Situations (10巻,1947~76) ,ギュスターブ・フローベールの自我形成の過程を独特の方法論を駆使して解明しようとした大作『家の馬鹿息子』L'Idiot de la famille (3巻,1971~72) などの著作がある。

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デジタル大辞泉

サルトル(Jean-Paul Sartre)
[1905~1980]フランスの哲学者・小説家・劇作家無神論実存主義主唱。第二次大戦後、雑誌「現代」を主宰。文学者の政治・社会参加(アンガージュマン)を主張し、共産主義に接近、反戦・平和運動に積極的に参加した。1964年、ノーベル文学賞の受賞を拒否。哲学論文「存在と無」「弁証法的理性批判」、小説「嘔吐」「自由への道」、戯曲「」「悪魔と神」、評論「文学とは何か」など。

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世界大百科事典 第2版

サルトル【Jean‐Paul Sartre】
1905‐80
フランスの作家,哲学者。第2次大戦後の世界の代表的知識人。パリで生まれ,パリで死去。早く父を失い,母の実家に引き取られる。3歳のとき右眼失明。12歳のときに母が再婚。サルトルは養父との折合いが悪く,その少年時代は幸福とはいえなかった。高等師範学校に学んだころの彼の周囲には,P.ニザン,R.アロンなど,後にそれぞれ一家を成した友人たちがいた。とりわけ24歳のときに知り合ったシモーヌ・ド・ボーボアールは,最初は恋人として,後には思想上の同志として,生涯をともにする唯一の伴侶となった。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

サルトル【Jean-Paul Sartre】
1905~1980) フランスの哲学者・文学者。現象学に刺激を受け、実存主義者として戦後文学の知的指導者となり、「現代」誌を創刊。のち、共産主義に接近、文学者の政治参加を説いて自らも実践。小説「嘔吐おうと」、戯曲「悪魔と神」、論著「存在と無」「弁証法的理性批判」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

サルトル
さるとる
Jean-Paul Sartre
(1905―1980)
フランスの哲学者、作家。第二次世界大戦後に、無神論的実存主義とマルクス主義の総合を試みて、世界的な影響を及ぼした知識人でもある。6月21日パリの中産階級の家庭に生まれる。2歳で父を失い、母方の祖父のもとで育てられる。幼いとき右眼(め)がほとんど失明状態になり、その後はすべて左眼に頼らざるをえなくなったが、これは、晩年の不幸の遠因となった。高等中学(リセ)時代にニザンを知り、高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリュール)に進んでからも親しい交際を続けた。そのころボーボアールと知り合い、生涯にわたる同志的な愛情を結ぶ。
 1931年からル・アーブルの高等中学で教鞭(きょうべん)をとっていたが、1933年から1934年にかけてベルリンに留学し、フッサールの現象学を学んだ。そこから生まれたのが、『想像力』(1936)、『自我の超越』(1937)、『想像力の問題』(1940)などの一連の哲学論文で、サルトルの思想の基盤はこのときつくられた。これら哲学論文の執筆のかたわら、長編小説『嘔吐(おうと)』(1938)を発表し、硬質な文体と、哲学に裏づけられた大胆な主題で、作家としてもその地位を確立した。当時のサルトルは、意識の自由を根底に据えて人間の自由を追究していたが、それを理論的に体系化したのが『存在と無』(1943)である。彼はこの大著で、意識存在としての人間のありのままの姿をとらえることを基本的な課題としたのであり、この徹底した自覚の道は、自由の思想とともに、その後の一貫した方法的態度をつくりあげることになる。
 第二次世界大戦中、召集され、捕虜になり、いったんはドイツの収容所に送られたのちに、病気と偽って釈放され、パリに戻る。対ドイツの抵抗組織をつくることを試みたが、それはほとんど効果をあげることもなく解消し、じっと終戦を待っていた。この間に戯曲『蠅(はえ)』(1943)、『出口なし』(1944)などが書かれて上演され、劇作家としても第一歩を踏み出した。
 戦後は、雑誌『レ・タン・モデルヌ』(現代)に拠(よ)るグループのリーダーとして、戦闘的ヒューマニズムの立場で活発な発言を展開する。彼の存在は、戦後の混乱期の若者たちに強烈に訴えるものをもっており、単にフランスのみならず、たちまち世界中の戦後派の注目の的になった。その後の活動は、ごく大まかに四つの時期に分けられる。[鈴木道彦]

1945~1950年まで

第1期は『存在と無』の延長上にあるもので、『文学とは何か』(1947)のなかで「アンガージュマン(社会参加)の文学」を提唱した時期である。当時は米ソの厳しい対立が世界の政治状況を支配していたが、彼は「第三の道」を模索して、「革命的民主連合」とよばれた運動に積極的に参加する。しかし、そうした政治的行動はまったく無効に終わったばかりか、作品に極端な有効性を求めたその文学理論も、いつか行き詰まりに陥った。「アンガージュマンの文学」の実践として、そのころ最大の努力を傾けた長編小説『自由への道』(1945~1949)が未完のまま放棄されたのは、そのためであった。[鈴木道彦]

1950~1955年

しかし、第2期に入ると、「第三の道」を完全に放棄し、とくに長大な論文「共産主義者と平和」(1952~1954)を書いてからは、共産党の同伴者となって反戦・平和運動にも精力的に参加する。他方、文学的には、作品に直接の有効性を求めるのではなくて、むしろ文学にいっそう深い価値を探り、こうして大作『聖ジュネ』(1952)を発表することになる。これはサルトルの最高傑作に数えられるもので、『存在と無』で予告した「実存的精神分析」の成果ともいうべきものであるが、そこでは抽象的な自由ではなく、ジャン・ジュネという屈強な対象を通して、他者と状況とによって疎外された人間の解放を文学に求めていることが注目される。こうして文学は、政治主義的なものではなく、深められたアンガージュマンとして位置づけられた。この時期に『悪魔と神』(1951)、『キーン』(1953)などという、きわめて充実した戯曲を書きえた理由もそこにある。なおこの間に、戦後に一時協力しあったカミュと、反抗と歴史をめぐる論争(1951~1952)がきっかけで決別したばかりか、『レ・タン・モデルヌ』誌の政治的リーダーであったメルロ・ポンティもまた離れていき(1953)、こうして同誌創立当時のおもなメンバーは、ほとんどサルトルとボーボアールを残すのみとなった。[鈴木道彦]

1956~1960年

1950年代後半から1960年代にかけての第3期とよべる時期に、サルトルはいま一度転回と飛躍を遂げる。そのきっかけになったのは、ソ連共産党のスターリン批判と、ハンガリー事件であり(ともに1956)、またアルジェリア独立戦争(1954~1962)であった。彼はそのときどきに自己の立場を明確にしたが、彼の態度表明はほとんど世界中の注目を集めたといっても過言でない。それほどに、戦後のもっとも著名な知識人として、彼の名声は揺るぎないものになっていたのである。とくに植民地独立のための武装闘争を支持したことは、アルジェリア民族解放戦線(FLN)にとって強力な味方を得たことを意味したばかりか、「第三世界」の重要性を認識させるのに大いに役だった。
 こうした一連の行動は、共産党の政策とまったく相いれないものであったが、その反面でサルトルは思想的にマルクス主義を完全に受け入れ、実存主義でそれを補完しようとしていた。そこから生まれたのが、構造的で歴史的な人間学を目ざす『弁証法的理性批判』(1960)である。しかしこれは第1巻を刊行したままで中絶し、その影響力も完全には発揮されることなく終わった。なお、この時期の重要な作品には、歴史の劇化を試みた戯曲『アルトナの幽閉者たち』(1959)がある。1964年にノーベル文学賞に指名されたが、ノーベル賞の政治的偏向を主たる理由として、これを拒否して受けなかった。[鈴木道彦]

1960年代後半以降

1960年代後半に世界的規模で起こった学生運動、とくにフランスの「五月革命」(1968)は、サルトルに深い影響を与えた。一方で、従来から取り組んでいた膨大なフロベール論『家(うち)の馬鹿(ばか)息子』(第1・2巻1971、第3巻1972)を発表するとともに、他方では中国の文化大革命に影響された小組織(マオ派)を支援し、発禁と押収の続くその機関紙を防衛するために、自ら編集長を引き受けたり、その新聞を街頭で配布するなどして、従来の知識人としての行動からようやく一歩脱皮する姿勢を示した。しかし、彼の肉体はすでに衰え、唯一残る左眼もまた1973年以降はほとんど失明状態になり、読書や執筆活動は不可能になった。『家の馬鹿息子』もこうして4巻目はついに書かれなかった。その後もインタビューなどに答えて発言に努めたが、それも晩年にはほとんど現実的な影響力を失い、輝かしい名声にもかかわらず、最後の数年間はけっして幸福なものではなかった。それでも、1980年4月15日に死亡したとき、フランスの各紙は数ページを割いて大々的にこれを報じ、葬儀の日には数万の群衆が自発的に柩(ひつぎ)のあとに長い行列をつくって、戦後史上最大の無冠の巨人に別れを惜しんだ。[鈴木道彦]
『伊吹武彦他訳『サルトル全集』全38巻(1950~1977・人文書院) ▽海老坂武・澤田直訳『自由への道』全6巻(岩波文庫) ▽F・ジャンソン著、伊吹武彦訳『サルトル』(1957・人文書院) ▽鈴木道彦他著『サルトルとその時代――総合著作年譜』(1966・人文書院) ▽大江健三郎・加藤周一他著『サルトルとの対話』(1967・人文書院) ▽竹内芳郎著『サルトル哲学序説』(1972・筑摩書房) ▽竹内芳郎著『サルトルとマルクス主義』(紀伊國屋新書) ▽鈴木道彦著『サルトルの文学』(紀伊國屋新書)』

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精選版 日本国語大辞典

サルトル
(Jean-Paul Sartre ジャン=ポール━) フランスの哲学者、小説家、劇作家。実存主義を提唱、雑誌「現代」を創刊し、文学者の社会参加(アンガージュマン)を説いた。代表作は、哲学論著「存在と無」「弁証法的理性批判」、小説「嘔吐」「自由への道」、戯曲「汚れた手」、評論「シチュアシオン」など。(一九〇五‐八〇

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