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ギリシア史【ぎりしあし】

日本大百科全書(ニッポニカ)

ギリシア史
ぎりしあし
ギリシアは、ギリシア語ではヘラスHellasあるいはエラスEllasという。ラテン語ではグラエキアGraeciaといった。最盛期の古代ギリシア世界は現代のギリシアより広く、バルカン半島南端を占めるギリシア本土を中心に、エーゲ海の諸島、小アジア西岸、黒海沿岸、イタリア半島南部、フランス南岸その他の地中海沿岸一帯に広がっていた。この地域の気候はいわゆる「地中海型」で、四季というよりも乾期(夏)と雨期(冬)の2期があるといったほうがよい。緯度に比すれば温暖で、寡雨といえるが、適当に降雨もある。ギリシア本土は、オリンポス山をはじめ2000メートルを超し3000メートルに近い高山のある山脈が何本も、主として南北に走り、海岸に迫っている。そのため良港には富むが、農業に適する土地は少ない。河川も急流が多く舟航には適せず、また陸上交通は困難だった。こうした自然的条件から、ブドウ、オリーブ、イチジクなどの果樹栽培には適するが、穀物の生産は不足がちだった。ギリシア本土の東のエーゲ海は「多島海」ともよばれ、陸影を見失わずに航海することが可能なため、元来は海を知らないギリシア人であったが、不足がちな穀物を求めて黒海やエジプトとの海上交易を早くから始め、彼らは海洋民として栄えた。今日でも船乗りとして世界の海洋で活躍するギリシア人は多い。
 古代のギリシア人は特異なポリス(都市国家)をつくるが、それは、地域が小さく分断されていたこととも関係がある。強力なペルシアの侵略には、スパルタ、アテネの二大ポリスは協力してあたったが、戦わずにペルシアに帰服したポリスも多かった。小ポリスが分立していたギリシアは自力で統一的国家になることはできず、マケドニア、ついでローマ、オスマン帝国と強力な外国によって征服され、支配された。ギリシアが統一的な国家になったのは19世紀に入ってからのことである。[三浦一郎]

ポリスの成立まで


ギリシア人の移動
ギリシア本土では紀元前6000年ごろから新石器文化が始まる(テッサリア地方の集落址(し)セスクロ、ディミニ)。そののち前3000年ごろから青銅器時代に入り、小アジア北西のトロヤやクレタ島が栄え、いわゆる「エーゲ文明」が出現する。前1900年ごろからインド・ヨーロッパ語族に属するギリシア人(東部ギリシア方言群)が南下してくる。彼らの原住地は不明だが、その特有の住居の形(メガロン)から北方系の人々と考えられる。彼らは北西方からギリシア本土に入り、海を渡って前1450年ごろにはクレタ島を支配するようになった。彼らが先進のクレタ文明人を支配しえたのは、彼らが馬を知っていたためともいうが、クレタ島北方100キロメートルほどのところにあるティラ島の前1500年ごろの大噴火の影響によって、クレタ島が衰えていたためともいわれる。彼らはクレタ文明を模倣して似た文明をつくり、文字もクレタの線状文字Aを学んで、線状文字Bを使用した。この文明を「ミケーネ文明」とよぶが、それはこの文明の遺跡がギリシア本土のミケーネにおいて最初に発掘、発見されたからである。伝説においては、ミケーネ王がその他の小王国の上に一段と高い地位を占めていたようにうかがえるが、現に発見されている線状文字B文書においては、小王国間の外交関係は不明で、王国相互の支配・依存関係もわからない。しかし、これらの小王国がオリエント型の古代官僚制的なものに類似したものをもっていたことが明らかになった。
 前1200年ごろ、このミケーネ文明諸国(ミケーネ、ティリンス、ピロスその他)は一様に壊滅的な破壊を受けている。これは、ドーリス人を主体とする新しいギリシア人の一派(西部ギリシア方言群)の人々が南下侵入してきたためと、従来は考えられてきた。しかしギリシア人の南下を、東部ギリシア方言群の人々の南下と、西部ギリシア方言群の人々のと、2回あったと考えることを不適当とし、ドーリス人も第一波の人々とともに早くから入っていたことが、線状文字Bの言語によっても明らかであるとする学者も最近はしだいに多くなっている。第二波の人々の侵入によって破壊されたと考えられてきたミケーネやティリンスなどの堅固な城塞(じょうさい)都市は、外からの攻撃によって滅びるようなものではなく、内部崩壊によってのみ可能だったとする。ミケーネ王家に関する伝説もそれを思わせるとする学者もある。しかし、本来ペロポネソス半島を支配するはずだったヘラクレスの子孫(ヘラクリダイ)がこの地を取り返しにきたというギリシアの古い伝説は、ドーリス人の遅れての南下と関係があるように思われる。また東のほうではヒッタイト王国がこのころ崩壊しており、それを気候変動で説明しようとする学者もいるが、この時期には「海の民」の活動など諸民族の移動が諸方においてみられたことは確かである。[三浦一郎]
「暗黒時代」とポリスの成立
ミケーネ諸王国の崩壊によってギリシア本土は大混乱した。使われていた線状文字Bも忘れられ、ふたたび文字のない時代に戻ってしまった。このように文化的な後退もあったので、この混乱期(前1200ごろ~前750ごろ)を「暗黒時代」とよぶこともあった。一時、この呼び方はあまり使われなくなっていたが、線状文字Bが1952年イギリスの学者M・ベントリスによって解読されてから、先行するミケーネ時代の細部がかなりよくわかるようになったのに比べて、この時代がわずかの出土品(主として陶器)とホメロス、ヘシオドスの叙事詩による伝承などのほかは文字記録もないため、当時の人々が暗愚であったという意味でなく、この時代がわれわれにとってあまり明らかでないという意味で、近年ふたたび「暗黒時代」とよぶ者が多くなった。
 この混乱期に、アテネやアルカディア地方などは例外的にかなり平穏だったが、人々は諸所を流浪した。やがて一氏族が一村落を形成するような形で定住するようになった。その際に獲得した氏族共同体の総有地は、氏族員の間に籤(くじ)(クレーロス)で公平に分配された。この分配地も「クレーロス」とよばれる。これを原始共産制の名残(なごり)とみる者もあるが、否定する者も多い。クレーロスはのちには完全な私有地となり世襲される。そして早く、クレーロスをもたぬものと、大きなクレーロスをもつものが生じている。
 前1000年ごろからはエーゲ海を越えて、小アジアへ移住、定住するものもあった。小アジアのイオニア地方へ移住したものは、アテネのあるアッティカ地方から出たと伝承は語っている。またイオニアの北のアイオリス地方には本土のテッサリア地方から、クレタ島、ロードス島、イオニア地方より南の小アジア沿岸にはドーリス系の人々が移住した(第一次植民活動)。
 混乱、移動の時代もしだいに秩序を回復し、文字も新しい今日のアルファベットの基になるギリシア文字が、フェニキア文字を改良して前750年ごろからふたたび使われるようになった。こうしてギリシア人の歴史がふたたび明らかになったときには、氏族制的・血縁的村落共同体からギリシア特有のポリスが各地で成立している。ポリスは多く小高い丘(アクロポリス)を中心として、人々が集住(シノイキスモス)してつくられた。村落からポリスへの移行の原因、時点、経過は種々の説があるが、よくわからない。暗黒時代の間に、アテネやスパルタなどのように王政の残ったところもあるが、多くは王権が衰え、戦車や騎馬をもつ貴族が支配を確立しており、ポリスの成立はこの貴族の支配確立と一致している。[三浦一郎]

ポリスの時代


スパルタの隆盛
各地に形成されたポリスはそれぞれ特異な社会をつくるが、なかでもスパルタとアテネは対照的な国家であった。他の諸ポリスについては記録も少ないが、この二つのポリスのどちらかの型に似ていたと考えられる。スパルタの特異な国制は、リクルゴスによって定められたと伝承されている。そのためこの国制を「リクルゴス制」とよぶ。しかしリクルゴスの実在やその時代については種々の論議がある。スパルタでは、ホモイオイ(平等者)とよばれる自由な市民であるドーリス人が、多数の先住民を征服して国有奴隷(ヘイロタイとよばれる)化し、彼らに世襲の耕地(クレーロス)の耕作を行わせ、収穫の2分の1を納めさせた。スパルタ市民自身は中心市に住み、生産的労働にはかかわらず、もっぱら政治と国防にあたった。ほかにペリオイコイ(周囲の民)とよばれる参政権をもたぬ半自由民がいた。スパルタは二つの王家からそれぞれ王を出し、つねに2王が併存している変わった王政をもっていた。王は軍の指揮者にすぎず、2王が併立しているためもあって王権は弱かった。しかしかえってそのため、他のポリスでは早く王政が消えたが、スパルタでは長く存続した。ホモイオイ全員の出席する民会があり、民会は年々5人の強力な権限をもつエフォロイ(監督官)を選出した。また2王を含む30人からなるゲルーシア(元老会)もあった。
 スパルタは、紀元前8世紀後半と前7世紀なかばに西隣のメッセニアと戦ってこれを征服し、その住民をヘイロタイ化した。リクルゴス制の成立期については、異論があるが、このメッセニア戦争のために起こった社会的変動を改革するために行われたと考えてよかろう。スパルタ市民は、共同食事や青少年に兵営的な厳格な集団生活をさせる「スパルタ教育」を課して、軍事訓練、肉体鍛錬をするなど独特の生活法をもった。彼らの国制は多数のヘイロタイの存在から寡頭政とか貴族政とよばれるが、実はスパルタ市民は貴族ではなく、重装歩兵(ホプリテス)で、ホモイオイとよばれる彼らの間では平等が完全に近く実現し、重装歩兵市民の民主政といってよい。スパルタはギリシア最強の陸軍国となり、前6世紀から前5世紀にかけて繁栄した。また、特異な国制を維持するために鎖国策をとった。[三浦一郎]
植民と僭主の時代
前750年ごろから前550年ごろまでの200年間は、ギリシア人が活発に植民活動をした時代で、「第二次植民活動の時代」という。植民活動は、エウボイア島のカルキス、地峡地帯のコリント、メガラ、小アジアのミレトスをはじめとするイオニア諸市が中心となって行われ、黒海や地中海の沿岸およびその島々に多数の植民市が建設された。そのなかにはマッシリア(マルセイユ)、ネアポリス(ナポリ)、ビザンティオン(イスタンブール)など今日もなお栄えているものもある。ただし、東部地中海沿岸はアッシリアやフェニキア人の勢力が強く、アフリカ北岸の西部もカルタゴ人の勢力範囲であったため、ギリシア人は進出できなかった。この時期の植民活動の原因と目的については、ギリシア経済史に関する長い未解決の論争と関連して、農耕地の獲得を考えるものと、商業的な意図から出たとするものとに分かれる。クレーロスの少数者への集中、分割相続によるクレーロスの零細化、人口増加などが原因となって、新しい耕地を求める必要が生じ、植民が行われたと考えられる。また貴族支配への不満、貴族間の対立抗争なども植民の原因となり、政治的に不満な者や政争の敗者は独立して別の新しいポリスの建設を企てたといえる。このように商業は植民の第一の目的ではなかったが、植民活動は商業貿易の進展を必然的に促し、そのための植民市建設も行われるようになる。エジプトのナウクラティス、南フランスのエンポリオン(「商館」という意味)などは商業的な意図で建設された代表的なものであった。ギリシア人による植民市の建設は初めは原住民に歓迎されたが、しだいに彼らの抵抗が強まり、またフェニキア海軍がペルシアの支配下に入って、ギリシアの艦船の航行を脅かすようになり、植民活動は終止する。植民を行う際には、その可否、建設地、指導者などについてかならず神託が問われた。そのためデルフォイなどの神託所はこの時代に栄えた。神託所は国際情報の集まる所でもあったから、ここで神託を聞くことは、それなりの実利があった。
 前660年ごろから各地で僭主(せんしゅ)(チランノスtyrannos)が輩出した。前500年ごろまでを「前期僭主時代」とよぶ。シキオンのオルタゴラス、アルゴスのフェイドン、コリントのキプセロス、アテネのペイシストラトスなどがよく知られている。小アジアのギリシア諸市に輩出した僭主の背後にはリディア、ペルシアなどがおり、彼らはギリシア諸市を支配するため、意のままに動く者をもり立てて僭主にした。
 活発な植民活動は商工業の発達を促し、また前7世紀の初めごろリディア王国に始まった貨幣の鋳造と流通は、小アジアのギリシア諸市を経てギリシア本土にも伝わった。経済的変動は、耕地の少数者への集中の傾向をいっそう強めた。土地を失ったものは土地の獲得を要求し、手工業の発達は武器を大量に、また比較的安価に供給しうるようになった。このため貴族の一騎打ち戦闘にかわって、中層市民の重装歩兵の密集戦隊戦闘が戦術上重要になった。こういう事情は中層市民の政権参与の要求となって現れた。このような民衆の要求、貴族の衰退、貴族相互の争いなどが僭主の出現を促した。僭主は大部分貴族の出身で、戦功や重要な役職について民衆の人望を得、民衆を支持者として非合法的に政権を握り、強力な一人支配を行った。チランノスの英語化したタイラントtyrantは「暴君」を意味するが、古代ギリシアでは彼らはかならずしも暴君ではなかった。アテネのペイシストラトスのように、その統治時代に商工業や文化が発達しのちに「黄金時代」とよばれるようなよい政治を行った者もある。しかし僭主には暴政に陥りやすい傾向があり、また多く2代以上は続かず、やがて彼らの支配は倒れて、重装歩兵市民の民主政へと移行してゆく。
 この変動期には僭主でなく、立法者、調停者、改革者が混乱の収拾をした場合もある。スパルタのリクルゴス、アテネのソロン、クレイステネスらは土地の再分配や新しい制度の制定などをした。また、この時代には多くのポリスで成文法が成立し、アテネのドラコン、ロクロイのザレウコス、カタネのカロンデスなどの成文法制定が伝えられている。その多くは、従来の慣習法を成文化したもので、むしろ貴族の権利の確保のためだったが、貴族がかってに裁判を行うことが阻止されるようになり、市民の法的な平等が確立する第一歩となった。
 この時代を「アルカイック期」ともよぶが、これは元来は美術史のうえで使われたものだった。しかしいまでは、ポリス成立からペルシア戦争までの時代をさす歴史的な時代区分の名としても使われている。[三浦一郎]
最盛期
古代ギリシアの最盛期は、これも元来は美術史的な呼び方だが「古典期」ともいう。最盛期の古代ギリシアの歴史はスパルタと対照的なポリス、アテネを中心にして展開する。そしてペルシアの侵略(ペルシア戦争)を退けえたことによって最盛期はもたらされた。
 アテネでは前508年ごろ、クレイステネスの改革により、重装歩兵市民の民主政が実現した。その後2回のペルシアの侵略を退けたため、民主政がさらに無産大衆にまで及ぶことになる。前490年のマラトンの戦いにおけるアテネの勝利は、重装歩兵の密集戦隊戦術によるものだった。これはアテネ市民に民主政に対する自信をもたせた。前480年のサラミスの海戦の勝利は、主力であるアテネ海軍によって得られたもので、これは艦船の漕(こ)ぎ手である無産大衆の政治的発言力を強め、民主政はさらに徹底して彼らにまで及んだ。
 ペルシアの侵略を退けたのち、前431年にペロポネソス戦争が起こるまでが、古代ギリシアの最盛期で、「五十年期」とよばれる。この時代はまたアテネの時代でもあった。ペルシア戦争中はスパルタがギリシア軍の総指揮権をもったが、戦後スパルタは不人気となり、かわってアテネがデロス同盟の盟主となって諸ポリスを支配した。ことに同盟の基金をアテネに移して保管する(前454/453)ようになってからは、同盟諸市を軍事的、政治的、経済的に支配して、「アテネ帝国時代」ともいわれる全盛期を迎えた。同盟諸市の多くはアテネに倣って民主政体となった。この時代のアテネの指導的な政治家の第一人者がペリクレスであった。彼の雄弁は非常に有名で、それによってアテネ市民の心をとらえた。彼がアテネの民主政体をたたえた演説(ペロポネソス戦争の戦没者の葬送演説)は歴史家トゥキディデスの『戦史』のなかに伝えられている。
 アテネは同盟市の貢租を使って、ペルシア軍に破壊された市の復興を図り、城壁の強化、パルテノンその他の神殿の建造、アクロポリスの美化などを行った。同盟の貢租はまたアテネの民主化を徹底させる経済的基礎ともなった。アテネは文化的にも全ギリシアの中心となり、諸ポリスからアナクサゴラス、プロタゴラスなどの学者やポリクレイトス、ポリグノトスなどの芸術家が集まった。アイスキロス、ソフォクレス、エウリピデスらの悲劇、アリストファネスの喜劇の上演、ソフィストたちやソクラテスによる教育などが行われ、神殿の建築、彫刻や絵画などの美術品によって町は美化された。
 商工業においてもアテネはギリシアの中心となり、陶器製造も盛んで、地中海西部への貿易にも進出した。しかしコリントの利害と対立するに至り、コリントが加盟している「ペロポネソス同盟」の盟主スパルタは、かねてからアテネの隆盛を嫉視(しっし)していたが、ついに前431年アテネに攻めかかり、アテネとスパルタがそれぞれの同盟市を率いて戦う「ペロポネソス戦争」となった。戦争は27年間続き、ついにアテネの敗戦に終わった。[三浦一郎]
衰退期
ペロポネソス戦争後、古代ギリシアは衰退期に入る。アテネにかわってスパルタがギリシアの覇権を握った。しかしそれがかえってスパルタの衰亡の遠因となる。スパルタはギリシアの諸ポリスを支配するため、リクルゴスの鎖国策を強行できなくなり、貨幣経済を否定する自給自足経済が不可能になった。またスパルタは諸ポリスの民主政を廃止して、寡頭政を強制したため、諸ポリスの市民の反発を招いた。テーベ、アテネ、コリント、アルゴスは同盟してスパルタに反抗した(コリント戦争)。スパルタは、ペルシアの力を借りて戦争を終わらせた。その後テーベは、エパミノンダスが出て民主化を行い、また新しい斜陣戦法をくふうして急に強国となり、スパルタを破り(レウクトラの戦い、前371)、ギリシアの覇権を握った。しかしエパミノンダスの死(前362)によって、その覇権も長く続かず、その後は全ギリシアを支配する力をもつポリスは現れず、諸ポリスの対立抗争の時代となる。ペルシアは金銭や艦船を使って諸ポリスを互いに争わせ、ふたたび小アジアのギリシア諸市の支配権を手に入れた。
 ギリシアのポリスが対立抗争を続けている間に、北方ではマケドニアが台頭し始めていた。前359年即位したフィリッポス2世は中央集権を実現し、テーベから学んだ戦術を改良して、まずトラキアを、ついで中部ギリシアを征服し、前338年にはカイロネイアでアテネ、テーベの連合軍を破って、ついに全ギリシアの覇権を握った(カイロネイアの戦い)。[三浦一郎]

被支配の時代


ヘレニズム時代
フィリッポス2世は、スパルタを除く全ギリシアのポリスをコリントに集めて会議を開き、連盟をつくらせ(ヘラス連盟)、ペルシア遠征を決議した。しかし彼は紀元前336年暗殺された。彼の後を継いだアレクサンドロス大王は、前334年ギリシア連合軍を率いて、アジアへの遠征に出発した。彼はペルシア帝国を滅ぼし(前330)、さらにインドにまで遠征の軍を進め、ヨーロッパからアジアにわたる大帝国をつくった。これはギリシア文化東漸の基礎となった。しかし、アレクサンドロス大王は前323年急死し、彼の帝国は三分され、ギリシアはマケドニアのアンティゴノス王家の支配下に入る。その後多くのポリスは独立をいちおう回復するが、中部ギリシアのポリスが中心となって「アイトリア同盟」を、ペロポネソスのポリスが中心となって「アカイア同盟」をつくり、連合して独立を維持した。
 この時代に各ポリスが変質、衰退していく状況の詳細は不明だが、スパルタの場合はプルタルコスによって伝えられている。スパルタでは、土地と富は少数者の手に集中し、土地財産を失ったため市民から脱落する者が増加し、市民皆兵制の維持は困難になっていく。このためアギス4世(在位前244~前241)、ついでクレオメネス3世(在位前227~前220)の2王は改革を企てたが、ともに失敗に終わった。スパルタ以外のポリスにおいても、前4世紀の後半からおそらく同じような事態が進行しつつあった。貨幣経済の進展は富の少数者への集中を招き、貧しい者は東方へ出稼ぎに出、ギリシア本土の人口は激減した。また傭兵(ようへい)の使用が盛んになり、ポリスの市民皆兵の原理は崩れた。このため、市民はポリス盛期にみられたポリス至上主義の精神を失って個人主義者となり、あるいはポリスを超えた「世界市民主義(コスモポリタニズム)」を主張するようになった。[三浦一郎]
ローマの支配
ローマは第2回ポエニ戦争(前218~前201)でハンニバルの侵略を退けたのち、マケドニアと戦って勝ち、ギリシアをマケドニアの支配から解放すると宣言した(前196)。第3回ポエニ戦争(前149~前146)の終わるころには、マケドニアはローマの属州となった。ギリシア諸ポリスの独立は尊重されていたが、やがて自治独立も完全に失う。中部ギリシアとペロポネソス半島が「アカイア州」とよばれ、ローマの属州とされたのは前27年であった。ローマの支配下に入ったギリシアは、かつてない平穏な生活を楽しんだ。ローマ人はギリシアの学問・芸術を尊重し、自らも学んだが、過去の栄光の名残(なごり)をもつ名所・旧跡に富む所として懐かしみ、旅する者や留学する者もあった。[三浦一郎]
ビザンティン時代
紀元後395年ローマ帝国は東西に分裂し、ギリシアは東ローマ帝国の一部となった。その首都がかねてギリシア人の建設した植民市ビザンティオンであったため、帝国はビザンティン帝国ともいい、この時代を「ビザンティン時代」という。ビザンティオンは、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世が首都とし、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)と名を改めていた。ビザンティン帝国は476年に西ローマ帝国が滅んだのちも、1000年ほど続き、古典文化を継承して栄えた。
 ビザンティン時代のギリシアのようすは、残存している文献がほとんどないため、詳細はわからない。ギリシアではそのころまでに古典的なものがしだいに影を薄くしている。393年以後、オリンピック競技は中止され、529年にはプラトン学派の伝統のある学園「アカデメイア」が閉鎖されている。これに反し、キリスト教化がしだいに進んでおり、ことにビザンティン時代になると、その趨勢(すうせい)がいっそう進んだことは、アテネの西のダフニ修道院やフォキスのオシオス・ルカス修道院などをはじめ、11~12世紀に盛んに教会や修道院がつくられ、美しいモザイクで内壁が装飾され、今日まで残っていることからもうかがわれる。この11~12世紀は平穏な暮らしが続き、農村や都市もわりあい豊かな時期であったが、その前後には異民族の侵入がたびたびあり、苦しい時代も多かった。
 すでに早く3世紀後半にゴート人、ヘルリ人(267)、アッティラの率いるフン人(447)が侵入した。6世紀から8世紀にはスラブ人が波状的に南下侵入した。スラブ人はギリシアに多数入り込み、定住し、キリスト教化し、ギリシア人と同化した。ギリシア人に与えた彼らの影響は大きく、地名にはスラブ系のものもかなりある。また彼らとギリシア人との混血も多く、「今日のギリシア人のなかには古代のギリシア人の血はまったく流れていない」という者すらある。9~10世紀にはアラブ人とブルガリア人の侵入があった。アラブ人は海賊となり、クレタ島、シチリア島などに基地をもち、地中海・エーゲ海沿岸のギリシア系の市を襲い、904年には一時テッサロニキを占領した。ブルガリア人は11世紀初めまでたびたび侵入を繰り返した。12世紀にはシチリアから、もと北欧に住んでいたビーキング(バイキング)とよばれるノルマン人が入り込み、やはりテッサロニキを占領している。
 この後も十字軍(第4回)とベネチア人にコンスタンティノープルが占領され(1204)、一時ビザンティン帝国は二つに分裂した。その結果ギリシアはフランク人とイタリア人の支配下に入った。この時代の城壁や要塞(ようさい)の名残(なごり)は、今日でもギリシア各地にいくつも残っている。1261年にビザンティン帝国はふたたび一つになって復活し、15世紀まで続く。そして1453年、ついにトルコ人によって滅ぼされた。[三浦一郎]
オスマン・トルコの支配
ギリシアはこの後400年間、オスマン・トルコ(オスマン帝国)の支配下に入る。その前に1000年以上のビザンティン時代があるので、トルコ人は支配下のギリシア人を「ルーミイ」とよんだ。これは「ローマ人」の意味で、ギリシア人はそうよばれることは気にかけなかった。彼らはローマ人の支配下にあったとは考えず、自分たちがむしろ東ローマを動かしていたと考えていた。トルコ人の支配下に入って、イスラム化が進められたが、それは成功せず、大部分のギリシア人はギリシア正教を捨てず、トルコ時代にもビザンツ(ビザンティン)式の教会が建てられ、改築、修理も行われた。またトルコ語もギリシア語に影響したが、ギリシア語は根本的には変わらなかった。耕作に適する土地はトルコ人に取り上げられたため、ギリシア人は商業に従事するものが多く、成功し富裕になったものもあった。また、トルコ人と結んでイスタンブール(コンスタンティノープル)などで重要な役人になり、外交方面などで活躍したギリシア人もある。トルコの支配はかならずしも圧政ではなかったが、合理的な法体系もない支配で、ギリシア人には不満の多い時代だった。今日のギリシアにもトルコの影響は日常生活の末端までかなり色濃く残っているが、ギリシア人はそう指摘されることを喜ばず、「ビザンツ風」とよばれることをよしとしている。そのようにトルコの支配はギリシアに深い傷跡を残している。[三浦一郎]

近代ギリシア


独立と「大ギリシア主義」
1821年、愛国的秘密結社「フィリキ・エテリア」はアレクサンドロス・イプシランディスに指導されルーマニアで反乱を起こした。まもなくトルコに鎮圧されたが、これに刺激されてギリシア各地に反乱が広まった。ウィーン体制を維持するためオーストリアのメッテルニヒはこれを抑えようとしたが、ロシア、イギリス、のちにはフランスも加わって独立軍を助け、戦争は1829年に独立軍の勝利に終わった。
 1827年以後カポディストリアスが大統領になったが、31年暗殺された。1827年のロンドン条約でギリシアは王国になることが列国によって決められていたため、ベルギー王子レオポルト(イギリス王の女婿)が王に推されたが、困難な事情を察して辞退し、バイエルン王ルートウィヒ1世の王子オットーOtto (Otho) (在位1832~62)が迎えられてギリシア王となった。ギリシアはもともと天然資源に乏しく、そのうえ独立戦争による破壊で経済的に弱体化していた。政治体制を確立して経済を強化することがオットーの仕事であった。彼はナフプリオンから首都をアテネに移し、経済の確立、国土の拡張政策を行った。国土拡張の最終目標は、1453年以前のビザンティン帝国の再建で、「大ギリシア主義」とよばれた。独立後のギリシアは、ひとことでいえば、外に向かってはこの国土拡張策、国内では王党派と共和派の争い、この二つが複雑に絡み合う歴史であった。独立当時のギリシアの領域は、ペロポネソス半島、中部ギリシア(ボロス湾―アルタ湾をつなぐ線以南)、キクラデス諸島であったが、その後、国土は拡張を続け、独立当時4万9000平方キロメートルだったものが、1907年には6万4000平方キロメートルになっている。
 1854~56年のクリミア戦争、59年のイタリアでの革命に刺激され、62年2月ギリシアにも革命が起こり、オットー1世は亡命した。しかしイギリスはギリシアに圧力をかけ、立憲君主制の維持、トルコとの敵対中止を条件にイオニア諸島(アドリア海側のイギリス保護領)を割譲し、デンマーク王子が迎えられて1863年にゲオルギオス1世Georgios (在位1863~1913)として即位した。77年ロシア・トルコ戦争が起こり、ギリシアはテッサリア侵入を計画したが、翌年戦争は終わり、講和がなって計画は挫折(ざせつ)した。しかし、81年イスタンブール(コンスタンティノープル)での会議で、テッサリアはギリシア領となった。これより先、1866年、クレタ島ではギリシアに併合されることを要求して反乱が起こった。トルコは68年にクレタ在住のギリシア人にトルコ人との同権を認めてなだめようとしたが、96年にはふたたび反乱が起こった。ギリシアはこれに干渉し、1908年には併合を宣言したが、列国がこれに反対した。翌年、青年士官たちの「軍人連盟」が結成され、クーデターを行い、政権を握った。この際ベニゼロスがクレタ島から招かれて政治を指導した。[三浦一郎]
バルカン戦争と第一次世界大戦
1912年、13年と、2回のバルカン戦争が起こり、セルビア、ブルガリアなどとともにトルコと戦ったギリシアは、この戦争によってさらに領土を拡大し、マケドニア南半、テッサロニキなどを手に入れ、ほかにエピルス地方南半、クレタ島、トラキア西部などを手に入れた。しかし13年ゲオルギオス1世はテッサロニキで暗殺され、その子のコンスタンティノス1世Konstantinos (在位1913~17、1920~22)が王位を継いだ。バルカン戦争はすでに世界大戦勃発(ぼっぱつ)の危機をはらんでいたが、14年ついに第一次世界大戦が起こった。ドイツ皇帝ウィルヘルム2世のいとこにあたるコンスタンティノス1世は中立を望んだが、ベニゼロスは三国協商(英仏露)側にたつことを主張して争った。イギリス、フランスは圧力をかけて王を退位させ(1917)、コンスタンティノス1世の子アレクサンドロスAlexandros(在位1917~20)を王位につけ、ギリシアは協商側にたってドイツに宣戦した。
 大戦は協商側の勝利に終わり、戦勝国になったギリシアは、ベルサイユ条約の議定中にイギリスの支持を得て、1919年5月小アジアのスミルナ(イズミル)に軍を上陸させた。敗戦によってトルコは混乱していたので、いよいよ「大ギリシア主義」は実現するかにみえた。しかし、ケマル・アタチュルク(ケマル・パシャ)が出現して、トルコを再建したために、これは実現せず、22年ギリシア軍は小アジアから追われた。これより先、20年11月、選挙の結果ベニゼロスは失脚し、コンスタンティノス1世が復位した。「大ギリシア主義」をいちおう捨てざるをえなくなったギリシアは、トルコと今後は紛争を起こさぬように、イズミル、トラキア東部などをあきらめ、ギリシアのトルコ系住民と、トルコのギリシア系住民との交換を図った。その結果、120万以上のギリシア人がトルコから帰り、45万のトルコ人がトルコに帰った。そのほか10万近いブルガリア人がギリシアから去った。しかしこの結果、ギリシアの人口問題はこののち重要な課題となり、経済問題も重大な危機に達した。貨幣価値は不安定になり、その結果、24年3月には王制が廃止され、共和国になった。しかしこの後も王党派と共和派の争いは続く。[三浦一郎]
第二次世界大戦と大戦後のギリシア
1928年にベニゼロスがふたたび首相になった。1924年に廃されていた王制が35年の国民投票によって復活し、コンスタンティノスの長男ゲオルギオス2世Georgios (在位1922~23、1935~47)が復位した。だが、ギリシアの政情不安定は治まらなかった。翌36年首相になった将軍メタクサスJohannes Metaxas(1871―1941)は、増大するドイツ、イタリアの脅威に備えるため、国王の承認をえて国会を停止し、独裁制をしいて国内態勢の統一を図った。
 1939年の第二次世界大戦勃発(ぼっぱつ)の際、ギリシアは中立を守っていたが、40年10月イタリア軍による北部国境侵入に対し「否(オーヒ)」をもって応えこれに反撃した。しかし翌年ドイツの機甲部隊によって、またたく間に全土を占領される。悲惨な占領下でも数々の抵抗組織が生まれ、連合軍と提携したゲリラ戦によって占領軍を大いに悩ませた。44年のドイツ軍の撤退により、ギリシアが解放されたとき、国王と政府はカイロに亡命しており、国内では抵抗運動の主力となっていた共産主義者が権力を掌握せんばかりであった。46年にアメリカ、イギリス、フランスの監視の下10年ぶりの選挙が行われて王党派が圧倒的勝利を収め、続く国民投票で支持されたゲオルギオス2世が帰国した。政府と共産主義者の間で激しい内戦が始まったが、47年にギリシアとトルコを共産主義から守るためのトルーマン宣言が発表され、49年に大戦の英雄である将軍パパゴスAlexandoros Papagos(1883―1955)が総司令官になると、この年に共産主義者は敗北を認めて内乱は終息した。
 1951年にギリシアはトルコとともにNATO(ナトー)(北大西洋条約機構)に加盟するが、国内政治はパパゴスが政界に入り、52年に政権についてようやく安定した。この安定はこの後のカラマンリス政権下の63年まで続き、経済も発展した。ただ発展といってもそれは相対的なものであった。海運国ギリシアは第二次大戦により、排水トン数で70%の船舶を失っていた。52年から63年の間に農業も工業も生産は倍増したが、主要な産業は外国の資本に支配されていた。国民総所得は増加したものの、その分布がきわめて不均衡で国民の不満が高まった。64年の選挙では、かつての自由主義運動から生まれた中道連盟が絶対多数を獲得し、ゲオルギオス・パパンドレウが政府を組織した。
 この間キプロスで争乱が発生し、同島を保護下に置いてきたイギリスがこれを手放してキプロス共和国が誕生していた(1960)。しかし人口の8割を占めるギリシア系住民と2割を占めるトルコ系住民の間で紛争が絶えず、これがギリシア、トルコの政治に大きな影響を与え、両国の不和を助長し続けた。とくにギリシアにとっては、大ギリシア主義に基づく統合の大きな目標であるだけに、キプロス問題は全国民の大きな関心事となった。キプロス紛争、軍部の人事、共産主義者の扇動をめぐって政情が不安となってきた67年、突如クーデターによって政権を握った軍が独裁制をしいた。これを抑えようとした国王コンスタンティノス2世(在位1964~73)は国を去った。軍制は73年に王制を廃し、これが74年の軍制崩壊後の国民投票によって確認され共和制が確立された。軍制が倒れたのはその腐敗にもよるが、直接の契機はキプロスへの干渉で、それがトルコ軍のキプロス上陸と島の40%の占領を招いたことであった。ただちにパリに亡命していたカラマンリスがよび戻された。彼は国民の強い信頼をえた連立内閣を組織し、寛容の精神をもって民主国家の再建にあたり、祖国の名誉を挽回(ばんかい)した。しかし、80年にカラマンリスが大統領に選出されると、翌81年の選挙で彼のつくった「新民主主義党」NDは、反米反トルコを唱え「変化」を訴えたゲオルギオスの息子であるアンドレアス・パパンドレウの「全ギリシア社会運動」PASOK (パソック)に政権を譲ることを余儀なくされた。これはギリシアにおける初の社会主義政権であった。しかしパパンドレウも責任ある地位につくと慎重にならざるをえず変化らしい変化はほとんどみられなかった。ただ反米反トルコの姿勢は崩さず、とくに85年以降の2期目はこの傾向が顕著であった。東西陣営対立の時代、アメリカは戦略上ギリシアより重要なトルコに、より多くの支援を与えていたからである。これに対し1981年にヨーロッパ共同体(EC)に加盟したギリシアは全会一致主義のECにおいて終始トルコの加盟に反対し続けた。
 パパンドレウの公私にわたる醜聞が契機になってPASOKは1989年の選挙で敗れ、NDに政権を譲ったが、93年に返り咲いた(96年辞任)。ギリシアに二大政党制が根づこうとしているが、政治の安定は伯仲した勢力の微妙な均衡にかかっている。[西村六郎]

ギリシア史の研究史


 ギリシアが19世紀に独立を遂行できたのは、ヨーロッパ列強間の利害関係が幸いしたといえる。しかし、独立戦争にイギリスの詩人バイロンが活躍したように、ヨーロッパ文化の祖国であると考えるヨーロッパ人のギリシアに対するロマンチックな情熱も働いている。このことはギリシア史の研究においてもみられる特徴で、19世紀には古代ギリシアを美化、理想化して考える傾向が強かった。しかし20世紀に入ってからは、ヨーロッパの人々も、現実的に古代ギリシア史を客観視して研究することができるようになった。古代ギリシア史研究の発達は考古学的成果に負うところが多く、ことに出土した金石文(インスクリプション)の整理、編纂(へんさん)、出版がみられるようになってから、それらを利用しない、従来の古典文献のみによる研究はもはや価値を失うこととなった。こうして丹念な研究が出るようになったが、最盛期のアテネ史あるいはスパルタ史の研究が中心だった。しかし最近はアルカイック期や衰退期、あるいはエウボイア、ボイオティアなどの地方史の研究など、従来扱われることの少なかった時代や領域の研究が盛んになっている。そしてイギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリア、旧ソ連など各国で次々に数多くの研究が発表されている。わが国のギリシア史の真に学問的な研究は原随園(ずいえん)に始まるといってよい。第二次世界大戦前ころから村川堅太郎(けんたろう)による欧米に比肩しうる研究が出始めた。現在では研究者の数も増え、欧米と同じようにインスクリプションを利用しない研究は価値がないとみられるほど研究が進んできている。ギリシアの古典文献もおもなものは邦訳も出版され、利用しうるようになった。しかしまだ、ビザンツ史や近代ギリシアの歴史の研究者はあまり多くない。
 ギリシアの古代遺跡の発掘は19世紀から、ドイツ、フランス、イギリス、イタリアその他の諸国の手によって盛んに行われており、重要な遺跡は大部分手がつけられているように一見思われる。しかし1967年以来のS・マリナトスによるティラ(サントリーニ)島の発掘、77年からのアンドロニコスによるマケドニアのベルギナの発掘(フィリッポス2世の墓といわれるもの)、80年のA・ゼスピニによるテッサロニキ西方のシンドス古墳群の発掘など、従来文献では知られていなかったが、驚異的な出土品をもった遺跡が近年次々に発見、発掘されている。これらはみなギリシア人の考古学者による発掘だが、オリンピア、デルフォイ、アテネのアゴラなど、重要な遺跡も欧米諸国の学者によって長年にわたって発掘、調査が継続されている。そしてこれらの発掘は、歴史研究に新しい光を投げ与えている。[三浦一郎]
『『岩波講座 世界歴史1・2』(1969・岩波書店) ▽『世界の歴史4 地中海世界』(1961・筑摩書房) ▽村川堅太郎・秀村欣二著『世界の歴史2 ギリシアとローマ』(1961・中央公論社) ▽秀村欣二・三浦一郎著『世界の歴史2 古代ヨーロッパ』(1974・社会思想社) ▽村田数之亮著『世界の歴史4 ギリシア』(1968・河出書房) ▽太田秀通著『スパルタとアテネ』(岩波新書) ▽W・G・フォレスト著、太田秀通訳『ギリシア民主政治の出現』(1971・平凡社) ▽弓削達著『地中海世界――ギリシアとローマ』(講談社現代新書) ▽秀村欣二・伊藤貞夫著『世界の歴史2 ギリシアとヘレニズム』(1978・講談社) ▽伊藤貞夫著『古典期アテネの政治と社会』(1982・東京大学出版会) ▽馬場恵二著『ビジュアル版世界の歴史3 ギリシア・ローマの栄光』(1983・講談社) ▽井上浩一著『ビザンツ帝国』(1982・岩波書店) ▽N・スボロノス著、西村六郎訳『近代ギリシア史』(白水社、文庫クセジュ) ▽C・M・ウッドハウス著、西村六郎訳『近代ギリシァ史』(1997・みすず書房)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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