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キプチャク・ハン国【キプチャク・ハンこく】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

キプチャク・ハン国
キプチャク・ハンこく
Kipchak Khanate
欽察汗国とも記される。 13世紀中頃モンゴル人によって東ヨーロッパ,中央アジアに建設された国。金帳汗国 Golden Horde,ジュチウルスとも呼ばれる。創建者はチンギス・ハンの孫バトゥ (抜都)で,首都は最初にサライバトゥ (現アストラハン付近) ,のちにサライ・ベルケ (現ボルゴグラード付近) 。 14世紀のなかば,ロシアの諸侯を支配下において全盛時代を迎えたが,モスクワ大公国の発展とともにその支配力は弱まり,1380年のクリコボの戦いでロシア軍により決定的な打撃を受けた。 14世紀末チムール (帖木児)に攻撃され,クリム・ハン国,シビル・ハン国が分立し,国力は次第に衰え,16世紀初めに滅亡

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

キプチャク・ハン国
きぷちゃくはんこく
Kipchak khante
チンギス・ハンの長子ジュチの一門が南ロシア・キプチャク草原を中心に形成した遊牧国家。ジュチ・ウルスJchi ulusともいう。また宗家のバトゥ家の帳幕の色にちなんで、金帳ハン国ともよばれる。チンギス・ハンは諸子弟分封のおり、ジュチには右翼(西方)にあたるアルタイ北西部、イルティシ川流域を与え、それ以西の地の征服を命じた。その次子バトゥは太宗オゴタイの命で西征軍の主将となり、父の遺志を継いでロシアを征服、東ヨーロッパを席巻(せっけん)した。帰途ジュチの諸子は新領土にとどまり、その結果、ボルガ川河口あたりのサライを中心に西方領に拠(よ)るバトゥ系、イルティシ川、カザフスタンの東方領を抑える長兄オルダの系統(白帳ハン国)、およびウラル川東方の中央部に散居するシェイバンら諸子の系統(青帳ハン国)の3集団に分かれ、巨大な半独立の所領を形成した。支配者のモンゴル人は初封時の四つの千人隊だけであり、被支配民の大半はキプチャク、ブルガルなどのトルコ系であったため、急速にトルコ化した。反面、モンゴル固有の制度、習慣を捨てることなく遊牧生活を堅持して、属領ルス(ロシア)に対しては租税を徴収するのみで満足した。バトゥはオゴタイ系と対立し、トゥルイ家の憲宗モンケを擁立して事実上の独立を得た。バトゥの弟ベルケ以降、イランのフラグ家との確執が続き、エジプトのマムルーク朝と結んだ。のちティームールとも争い、しだいに弱体化して1502年に滅んだ。[杉山正明]

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