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カエサル

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

カエサル
Caesar, Gaius
[生]前20
[没]後4.2.21. リキア
ローマ皇帝アウグスツスの孫。 M.アグリッパユリア (大) の長男。前 17年アウグスツスの養子となり,その後継者として嘱望された。前1年プロコンスル命令権を与えられてアルメニア使節として派遣され,親ローマの人物をアルメニア王とした。しかしそのために暴動が起り,その鎮圧の際重傷を負い,イタリアへ帰る途中,死没

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カエサル
Caesar, Julius
[生]前100?.7.12./前100?.7.13. ローマ
[没]前44.3.15. ローマ
古代ローマの最も偉大な将軍,政治家。フルネーム Gaius Julius Caesar。英語名ジュリアス・シーザー。民衆派(ポプラレス)に属し,青少年時ルキウス・コルネリウス・スラの全盛時代であったため各地を転々とし,前78年スラの死を聞いてローマに帰り,前77年以後政界に入った。ロドス(→ロドス島)で修辞学を学び,前68年財務官(クアエストル),前65年按察官(アエディリス)を経て,前63年大神官に当選。その選挙費用のためローマ最大の債務者となった。前61年ヒスパニア総督,翌年ローマに帰ってポンペイウス大ポンペイウス),マルクス・リキニウス・クラッススと第1次三頭政治を形成,前59年執政官(コンスル)となり,市民への土地配分など政治的手腕を発揮した。前58年からガリア遠征に向かい,ガリア・トランサルピナの諸部族を平定,前52年ウェルキンゲトリクスの大反乱をも鎮圧,ローマのガリア支配を確立するとともに,今後の活動に必要な優秀な軍隊と豊富な資金を取得した。
前54年カエサルの娘でポンペイウスの妻ユリアが死に,前53年クラッススがパルティア帝国と戦って敗死すると,三頭政治に代わってカエサルとポンペイウスの対立となった。前49年閥族派(オプチマテス)がポンペイウスと組んでカエサル召還を元老院で決議したため,カエサルはルビコン川を渡ってローマに進撃。ポンペイウスはギリシアに逃れ,カエサルはまずヒスパニアを討ち,前48年ギリシアに渡り,ファルサルスの戦いでポンペイウスを破った。エジプトに逃れたポンペイウスを追ったカエサルは,プトレマイオス朝の内紛に介入して,クレオパトラ7世と結ばれ,彼女を女王とした。前47~前45年にはポントス,アフリカ,ヒスパニアに転戦,ポンペイウス派の残党を撃滅してローマに帰還し,盛大な凱旋式を行なった。前46年に共和政の伝統に反して 10年任期の独裁官(ディクタトル)となる。前44年に終身の独裁官となり,監察官(ケンソル)職を取得して元老院に腹心の者を無制限に入れ,その数 900人に及んだ。反対者には仁慈をもって接し,独裁者として多岐にわたる立法活動を行ない,救貧事業,植民市建設,暦法改革などを実施。属州総督の任期の限定,弊害の多かったアシア州とおそらくそのほかの州の徴税請負制度の廃止,税額の軽減を行なった。しかしカエサルの強大な実権は王政実現への危惧を引き起こし,ついに共和派のマルクス・ユニウス・ブルーツスらによって元老院議事堂で暗殺された。共和派の意図に反して民衆はカエサルの死を悼み,養子とされたオクタウィアヌス(アウグスツス)が彼の跡を継ぐことになる。
雄弁,文筆にも卓越し,『ガリア戦記』『内乱記』などをしている。王にはならなかったが,カエサルの名称より皇帝を意味するドイツ語のカイザー Kaiser,ロシア語のツァーリ Tsariが生じた。(→ローマ史

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カエサル
Caesar, Lucius
[生]前17
[没]後2.8.20. マッシリア
ローマ皇帝アウグスツスの腹心 M.アグリッパユリアの間の次男。のち兄ガイウスとともにアウグスツスの養子となり,その後継者とされたが,ヒスパニアにおもむく途中マッシリアで死んだ。

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カエサル
Caesar, Lucius Julius
[生]?
[没]前87
古代ローマの政治家。前 94年頃マケドニア総督,前 90年執政官 (コンスル ) 。同盟市戦争の際ローマ軍を率いて苦戦,戦後ローマに忠実であった同盟市に,ローマ市民権を与える「ユリウス法」を通過させた。彼の娘の子が M.アントニウスである。またユリウス・カエサルとは遠縁にあたる。

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カエサル
Caesar, Lucius Julius
前1世紀頃のローマの軍人。前 51年ユリウス・カエサルがガリアを征服したとき,その副官をつとめたが,内乱には関与しなかった。前 47年都長官。カエサルの死後,M.アントニウスには敵対した。卜占に関する著作がある。

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カエサル
Caesar, Sextus Julius
[生]?
[没]前46
古代ローマの政治家。ユリウス・カエサル血族。内乱に際し,前 49年ヒスパニアでポンペイウス (大ポンペイウス) と戦った。前 48年財務官 (クアエストル ) ,次いでシリア総督となったが,前 47/6年カエキリウス・バッススの扇動により部下に殺された。

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カエサル
Caesar Strabo (Vopiscus), Gaius Julius
[生]?
[没]前87
古代ローマの著名な弁論家。 G.マリウスを支持し,サツルニヌス法に基づく検地官,次いで前 90年には按察官 (アエディリス ) となった。しかし前 88年執政官 (コンスル ) 職を志してマリウスと対立,翌年殺された。

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デジタル大辞泉

カエサル(Gaius Julius Caesar)
[前100ころ~前44]ローマの将軍・政治家。ポンペイウスクラッススと第1回三頭政治を結成。ガリアを平定したのち独裁者となるが、共和派によって元老院内で暗殺された。文人としてもすぐれ、著に「ガリア戦記」「内乱記」など。シーザーケーザル
[補説]「カエサル」は、ローマ皇帝の称号となり、ドイツ皇帝の「カイゼル」やロシア皇帝の「ツァーリ」の語源になった。

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世界大百科事典 第2版

カエサル【Gaius Julius Caesar】
前100‐前44
共和政末期ローマの政治家,将軍。英語読みではシーザー。ガリアを平定してギリシア・ローマ文化をヨーロッパ内陸部にまでひろめる基礎を築き,内乱の勝利者として単独支配者となり,世界帝国的視野に基づく変革を行ったが,共和政ローマの伝統を破るものとみなされて暗殺された。ギリシア・ローマの歴史の流れを決定的に変えた大政治家。将軍・文人としても第一級の人物である。
[コンスルへの道]
 女神ウェヌスの裔(すえ)であることを誇る,パトリキ系の名門の出。

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Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

かえさる【カエサル】

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大辞林 第三版

カエサル【Gaius Julius Caesar】
前100~前44 古代ローマの将軍・政治家。紀元前60年第一回三頭政治を開始。ガリア征服後ポンペイウスを倒し、紀元前44年終身独裁官となる。救貧事業や太陽暦採用などを行うが、ブルートゥスらに暗殺された。英語名シーザー。著「ガリア戦記」「内乱記」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

カエサル
かえさる
Gaius Julius Caesar
(前100―前44)
古代ローマ、共和政末期の政治家、将軍。いわゆる第1回三頭政治を敷いた政治家の一人。英語ではシーザー。ガリアを平定して、古典古代の文化をヨーロッパ内陸部にまで広めるとともに、内乱での勝利の結果、単独支配者となり、世界帝国的な視野のもとで社会的、政治的な変革を行ったが、共和政ローマの伝統を踏みにじるものとみなされて暗殺された。ギリシア・ローマの歴史を決定的に変えた大政治家であり、将軍、文人としても第一級の人物とみられている。[長谷川博隆]

コンスルへの道

カエサルは紀元前100年7月13日に生まれた。女神ウェヌス(ビーナス)の後裔(こうえい)であることを誇るパトリキ系の名門の出である(ただしカエサル家は第一級の名門には属さず、祖先にも名士を出していない)。伯母は将軍マリウスの妻。父はガイウス・ユリウス・カエサル。前85年に父を失ったが、良妻賢母の誉れの高い母アウレリアには一生敬愛の念を捧(ささ)げた。前84年に民衆派のキンナの娘コルネリアをめとったため、閥族派のスラの勝利後、離別を促されたが、受け入れず、追及を逃れて東方に赴き、前80~前78年属州アジアおよびキリキアで従軍し、武勲のため(かしわ)葉の冠を受けた。スラの死後帰国し、前77年、元地方長官ドラベラを告発することによって政治生活の第一歩を踏み出した。ついで前75~前74年ロードス島のモロンのもとで雄弁術を学び、前73年には神官に選ばれた。前70年以降は、第一人者たろうという功名心を燃やしつつ、スラ体制の打破を目ざす民衆派の一人としての道を歩み始めた。前69年には財務官として「彼方(かなた)のスペイン」(ヒスパニア・ウルテリオールHispania ulterior)に赴任し(~前68年)、前67~前64年にはポンペイウス支持の立場を鮮明にし、前65年のアエディリス(按察官(あんさつかん))に選ばれるや、大々的に剣闘士競技を催して、人心収攬(しゅうらん)に努めた。さらには大規模な買収によって前63年大神官(終身)になった。なお、国家転覆を謀るカティリナの陰謀事件に加担したかどうかについては議論があるが、キケロの強硬処置には反対している。前62年法務官となり、東方から帰国したポンペイウスのための各種の法案を支持し、12月のクロディウスと妻ポンペイア(スラの孫娘。コルネリアを失ったのち、前67年に再婚した女性)とのスキャンダル事件に関連して、翌年妻を離別した。ついでクラッススから多額の借金をして債鬼を逃れ、前61年「彼方のスペイン」の長官として任地に赴くや、属州の秩序を整え、ルシタニ人を討ち、戦利品で部下および国庫を潤し、政治的、軍事的に力を蓄えてゆく。前60年には、実力者ポンペイウス、富豪クラッススと同盟を結び、私的な結合たる第1回三頭政治を始め、これを背景に前59年共和政ローマの最高の官職コンスル(執政官または統領と訳す)に選ばれた。
 コンスルとしては、ポンペイウスの老兵および無産市民に対する土地割当てをねらいとする2回にわたる国有地分配法案、ポンペイウスの東方での諸規定、秩序を認める法案、徴税請負法案、不法取得取締法案、さらにはアレクサンドリアの王に関する法案や元老院議事公開法案などを通すことによって、ポンペイウスやクラッススとの結び付きを固めるとともに、一般民衆の意を迎えた。一方、自らも一法案により、コンスル職ののち、ガリア・キサルピナGallia Cisalpina(アルプスの此方(こなた)のガリアの意)とイリリクム(現在のクロアチアのアドリア海に面する地方およびハンガリー西部)を前54年2月末まで統治することが認められ、さらにガリア・トランサルピナGallia Transalpina(アルプスの彼方のガリア)がこれに付け加えられた。また自分は執政官ピソの娘カルプルニアを妻とし、娘ユリアをポンペイウスにめあわせている。そのコンスル職の活躍は、護民官的なものであったと評されている。[長谷川博隆]

ガリア戦争

前58年からガリアの地方長官として前50年までの在任中にガリア戦争を遂行し、ライン川左岸までのガリア全土をほぼ平定した。まず前58年にはヘルベティア人を討ち、さらにゲルマン人のアリオウィストゥスを破り、翌前57年にはガリア北部のベルガエ人を抑え、さらに前56年にはブルターニュ、ノルマンディーからアクィタニアに兵を進め、ウェネティ人も下した。ついで前55年にはライン川を越えてゲルマン人の地に入り、またブリテン島にも遠征している。さらに前54年7月、再度ブリテン島に兵を進めたが、秋にはガリアの大反乱に対処し、ついで前53年には北ガリアの諸部族、とくにトレウェリ人、エブロネス人を討った。その間も中央ローマの政治の動きに心を配り続けた。ポンペイウスとクラッススとの盟約は前56年4月のルカの会談で固められ、カエサルのガリアの地方長官職も5年延長されたが、一方、元老院の保守派との関係は悪化してゆく。前52年のウェルキンゲトリクスVercingetorix(前82ころ―前46)に率いられたガリアの大蜂起(ほうき)に対しては、アウァリクム、ゲルゴウィアの戦闘後、アレシアの包囲戦で勝利を収めた。翌年もベロウァキ人の蜂起などの戦闘はみられたが、いちおうガリアの戦いには終止符が打たれた。長年にわたるガリア戦争はローマの国庫を潤したばかりか、カエサルの経済的、政治的な力を増大させ、とくに都市国家ローマにとどまらない広い視野が培われるとともに、軍事独裁のための基盤がつくられた。一方、ヨーロッパ内陸部が初めてギリシア・ローマ文化の恵みに浴し、西欧文化圏成立の基礎がつくられたといえよう。[長谷川博隆]

内乱

ポンペイウスに嫁した娘ユリアが前54年に死に、翌前53年にクラッススが東方パルティア遠征で敗死したため、第1回三頭政治も崩壊し、元老院の保守派と結んでゆくポンペイウスとの関係も悪化する。前51年来カエサルの召還、軍隊解散をめぐって事態は険悪の一途をたどり、妥協案も退けられ、前49年1月7日の元老院の最終決議(非常事態宣言)に対して、カエサルは兵を率いルビコン川を渡ってイタリアに侵入し、ポンペイウスに全権を与えた元老院の保守派との内乱に突入した。カエサルのイタリア制圧によりポンペイウスが東方に逃れたため、カエサルは彼の地盤の属州スペインを抑えたのち、前48年、エピルスの地にポンペイウスを追い、デュラキウムでの陣地戦のすえ、8月9日ファルサロスの決戦でこれを破った。ついでエジプトに渡ったが、王位継承戦(前48年10月~前47年3月)に巻き込まれ、戦いに勝って王位につけたクレオパトラとの間に一子カエサリオンをもうけた。その後、前47年8月にはミトリダテス大王の息子ファルナケスをゼラで討ち、小アジアの治安を整えた。ついでアフリカでスキピオの率いるポンペイウスの残兵をタプススに破り(前46年4月6日)、小カトーをウティカに自刃させた。さらに前45年3月17日にはスペインのムンダでポンペイウスの息子の率いる軍勢を破って、内乱に終止符を打った。[長谷川博隆]

独裁者

前48年末に1年任期の独裁官に任ぜられ、またタプススの勝利後、前46年4月ごろ10年任期の、さらに前44年2月以降は終身の独裁官になり、数多くの栄誉や特権が与えられてゆく。全軍に対する指揮権、国庫の管理、和戦の決定、風紀取締り、推薦選挙などの特権、凱旋(がいせん)将軍の衣装(古ローマの王の衣服)の常時着用の栄誉が認められ、諸神殿に彼の彫像が立てられる。一方、政敵には寛大な姿勢を示し、大規模な恩赦を与え、これを登用してゆく。大凱旋式および見せ物、競技で民衆の意を迎える一方、大々的に救貧、イタリア内の土地分配、カルタゴやコリントへの植民などの事業を進め、ポー川以北、アルプス以南のガリアのラテン市にローマ市民権を与え、元老院の議席を増やして広い層の人を登用し、また大規模な土木工事をおこして首都ローマを整え、前45年1月1日からは太陽暦(ユリウス暦)を採用し、自治市の規準を示す法律も定めた。しかし権力を一身に集中したため、前44年3月15日、ブルートゥス、カッシウスら共和政護持者たちに元老院議場で暗殺された。[長谷川博隆]

著作

雄弁家、文人としても第一級の人物として知られる。しかし、その演説の草稿、書簡、パンフレットは散逸し、現存するのは、簡潔な文体、的確な現実把握の点でラテン散文の範といわれる『ガリア戦記』(8巻。ただし第8巻は部将の手に成る)、『内乱誌』(3巻)のみである。[長谷川博隆]

評価

実戦の雄であるばかりか、将軍として卓越した才能を示し、一方、人心の向かうところを正しくつかんだ民衆派政治家で、各種の改革を遂行したが、業なかばで倒れたというべきであろう。人間的には、冷静な頭脳をもっていた一方、情熱的で、在来の習慣を踏みにじり金銭関係もルーズであったが、人間味豊かであった。運命の女神とともにあることを確信し、世人からも運命の申し子とみなされた一方、政敵を心から受け入れる仁慈の人として知られる。究極のねらいは王政であったのかという点を踏まえ、彼を共和政の破壊者とみる説と、逆に帝政の礎石を据えた人物とする説との対立があり、評価は定まらない。政治家としてのスケールの点、とくに世界帝国的な視野の点についても学説史上対立がある。豊かな人間性、最後の悲劇性など、その人間像についても、シェークスピアをはじめ文学者、芸術家の手で、現代までさまざまの角度から取り上げられている。
 なお、カエサルとは本来ユリウス氏族の一家族名であったが(カリグラ帝まで)、ローマ皇帝(元首)の称号となり、ハドリアヌス帝以降は帝位継承者の称号ともなった。さらにドミナトゥス時代には副帝をさしていたが、のちドイツではカイザー(カイゼル)、ロシアではツァーリとなり、それぞれ帝国の皇帝を意味する名称となった。[長谷川博隆]
『国原吉之助訳『カエサル文集 ガリア戦記・内乱記』(1981・筑摩書房) ▽近山金次訳『ガリア戦記』(岩波文庫) ▽河野与一訳『プルターク英雄伝』(岩波文庫) ▽村川堅太郎編・訳『世界古典文学大系23 プルタルコス』(1966・筑摩書房) ▽ランボー著、寺沢精哲訳『シーザー』(白水社・文庫クセジュ) ▽ヴァルテル著、橘西路訳『ジュリアス・シーザー』(角川文庫) ▽ゲルツァー著、長谷川博隆訳『カエサル』(1968・筑摩書房) ▽ピエール・グリマール他著、長谷川博隆監修・他訳『世界伝記双書3 ユリウス・カエサル』(1984・小学館)』

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精選版 日本国語大辞典

カエサル
(Gaius Julius Caesar ガイウス=ユリウス━) ローマの将軍、政治家。紀元前六〇年、クラッスス、ポンペイウスと第一次三頭政治を樹立。全ガリアの平定後、ポンペイウスをエジプトに追って滅ぼし、各地の内乱を平定して、独裁官となる。多方面に事績をあげたが、共和政体擁護を唱えるカッシウス、ブルートゥスらによって暗殺された。文人としてもすぐれ、「ガリア戦記」「内乱記」の史書がある。カイゼル。英語名はシーザー、ケーザル(Caesar)。ジュリアス=シーザー。(前一〇〇‐前四四

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旺文社世界史事典 三訂版

カエサル
Gaius Julius Caesar
前102/100〜前44
古代ローマの将軍・政治家。英語読みはシーザー
名門の出身であるが,平民派を地盤として急速に政界で地位を築いた。前60年ポンペイウス・クラッススと結び,元老院を抑えて第1回三頭政治を行った。ついでコンスルをへて前58〜前51年にはガリア遠征を行い,全土を征服してローマ化し,ブリタニアにも渡った。クラッスス戦死ののち政敵のポンペイウスが元老院と結んだのを知り,「骰子 (さい) は投げられた」と言ってルビコン川を渡って各地に転戦し,前48年ファルサロスの戦いで彼を倒した。前46年,元老院からインペラトルを授けられ,以後,属州政治の改革や,貧民の救済,商工業の奨励,太陽暦(ユリウス暦)の採用などに尽力した。前44年に終身のディクタトル(独裁官)となり,文武の大権を一身に集めたため,元老院で共和主義者のブルートゥスらに暗殺された。いっぽう,彼はすぐれた文人でもあり,その著『ガリア戦記』『内乱記』は有名。またディオクレティアヌス帝以後は,正帝をアウグストゥス,副帝をカエサルと呼ぶようになり,インペラトルという称号とともに「皇帝」の語源となった。

出典:旺文社世界史事典 三訂版
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