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エリトリア

朝日新聞掲載「キーワード」

エリトリア
紅海に面した国土は11万7600平方キロで、北海道と九州とをあわせた広さとほぼ同じ。1993年の独立以来、イサイアス・アフェウォルキ大統領が率いる。憲法は97年に採択されたが未発効。国政選挙も実施されていない。独裁体制のもと、結社の自由や報道の自由がなく、国際人権団体から批判されている。 エリトリアが位置するアフリカ大陸東端は「アフリカの角」と呼ばれ、インド洋と紅海、さらにスエズ運河を通じて地中海につながる要衝だ。19世紀末から欧州列強が進出、エリトリアはイタリアの植民地となり、その後、エチオピアに併合された。 独立後もエチオピアとの間では98年から2000年まで国境紛争が続いた。今なお「平和でも戦争でもない」状態とされる。
(2018-04-17 朝日新聞 朝刊 2外報)

出典:朝日新聞掲載「キーワード」

世界大百科事典 第2版

エリトリア【Eritrea】
正式名称=エリトリア国State of Eritrea面積=12万1144km2人口(1996)=362万人首都=アスマラAsmara(日本との時差=-6時間)主要言語=ティグリニア語,アラビア語など通貨=エチオピア・ビルEthiopian Birrアフリカ大陸北東部に位置する国。西でスーダン,南でエチオピア,南東部でジブチに接し,紅海に面したその海岸線は約1000kmに達する。エリトリアという名称は,古代ギリシア語で〈赤〉すなわち紅海を意味したエリトゥライアに由来する。

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大辞林 第三版

エリトリア【Eritrea】
アフリカ北東部、紅海の西岸に臨む共和国。1890年イタリアの植民地になり、1962年エチオピアに併合されたが、内戦を経て93年同国から分離・独立した。綿花・コーヒーを産出。住民はチグレ族。イスラム教徒が多い。首都アスマラ。面積11万8千平方キロメートル。人口440万( 2005)。正称、エリトリア国。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

エリトリア
Eritrea
正式名称 エリトリア国 State of Eritrea。ティグリニャ語ではエルトラ Ertra。
面積 12万1144km2
人口 541万5000(2011推計)。
首都 アスマラ

アフリカ大陸北東部の国。エチオピアの北,紅海にのぞむ。中部から西部の高原には農耕民が居住,コプト派キリスト教徒が多く,そのほかの地域は半遊牧民でイスラム教徒が多い。古代からアクスム王国やエチオピアの版図に属することが多かったが,16世紀中頃からヨーロッパ人が注目しはじめ,1869年頃からイタリアがアッサブ付近の海岸地方をスルタンより購入,1882年に植民地化した。 1889年にはエチオピアのメネリク2世に,西部高原地方を含む紅海沿岸地方のイタリア支配を認めさせ,翌 1890年,イタリア領エリトリアが成立,イタリアのエチオピア侵攻の基地となった。 1941年連合国軍によってイタリア支配から解放され,イギリス支配下に入った。 1947年の平和条約でイタリアはエリトリアに対する権利を放棄,1948年以後国際連合の働きがあり,1952年エチオピアと連邦を結成,1962年エチオピアと完全に統合した。しかしその後エリトリア人民解放戦線 EPLFによる独立運動が続き,1991年 EPLFはエチオピア人民革命民主戦線 EPRDFなどとともに政権を打倒,北部エリトリアを掌握した。独立を問う住民投票の結果,1993年独立を達成した。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

エリトリア
えりとりあ
State of Eritrea英語
Hagere Ertraティグリニャ語

総論

「アフリカの角」Horn of Africaとよばれるアフリカ大陸の北東部にある国。正式名称はエリトリア国State of Eritria。東はジブチ、南はエチオピア、西はスーダンと接する。北は紅海に臨み、その対岸はサウジアラビアとイエメン。面積は11万7600平方キロメートル(2006国連)だが、エリトリア政府発表では12万4000平方キロメートルである。人口は510万(2009国連推計)であるが、国民意識のない遊牧住民、難民や避難民の流出入などの要素を勘案するとおよそ500万と推計される。首都はアスマラ。
 古い歴史をもちながら、時の列強による勢力争いに翻弄(ほんろう)された後、自然環境や住民の生活を無視して統合や分割を強行した植民地主義の落とし子のような国として生まれ、貧困に苦しむ小国の道を歩んできた。エリトリアという国名は、イタリアが植民地として統治するにあたり、ラテン語で「紅海」を意味する「マーレ・エリトリウム」Mare Erythreaumにちなんでつけられたといわれる。[奥野保男]

自然

小さな国ながら、中部高原にある首都アスマラから紅海に面した第2の都市マッサワまで、蒸気機関車やバスによる旅の2時間で三つの季節を体験できるといわれるほど地形、気候とも多様である。国土は大きく分けて紅海に望む狭い沿岸平野と平均標高1000~1500メートルの高原地帯からなっている。沿岸部は砂漠で、その中央に海面下100メートルを超えるダナキル低地がある。
 全体として熱帯性の乾燥気候帯に属し、とくに低地は年平均気温が30℃にも達するが、高原部は温暖でしのぎやすい。[奥野保男]

歴史

紀元前後ごろアクスム王国が興った地といわれるが、16世紀のトルコによる占領からエジプトの支配を経て、1890年にイタリアの植民地となり、エリトリアと名づけられた。第二次世界大戦中の1941年にイギリス軍が占領、翌年に保護領とした。しかし1950年の国連総会で独立を主張するエリトリアに対して、エチオピアの併合案が採択され、1952年に自治州として連邦を結成した後、1962年にエチオピアの1州として併合された。それ以来、分離・独立を目ざす解放運動が生まれ、エリトリア解放戦線(ELF。1958年に結成)などによる対エチオピア武力闘争が、アラブ諸国の支援のもとに続けられた。
 そのなかで、1970年にELFから一部革新派が分派して結成したエリトリア人民解放戦線(EPLF)が指導的役割を果たすようになり、ゲリラ戦によってしだいに解放地域を広げるとともに、1991年5月には州都アスマラを制圧して臨時政府の樹立を宣言、独自のビザ発行や外貨管理を行うなど実質的に独立を準備した。そして同年7月のエチオピア全政党会議で採択された決議に基づいて、1993年4月に国連の監視下で住民投票が実施され、有効投票の99.8%の賛成を得て独立を決定した。それを受けて翌月の1993年5月24日、正式に独立を宣言し、アフリカで53番目の主権国家となり、同年末には国連加盟が承認された。独立後の初代大統領にはEPLF(1994年2月に民主正義人民戦線=PFDJと改称)書記長のイサイアス・アフェウェルキIsaias Afewerki(1946― )が就任した。[奥野保男]

政治・外交

独立以来、暫定政府として事実上の一党独裁のもとで、1992年に基本的人権や複数政党制を定めた民主的憲法を制定したが、施行には至らなかった。同憲法によれば、大統領の任期は5年、一院制の国民議会で選出されることになっている。また大統領が任命する閣僚からなる内閣をもつが、国民議会をはじめ、いずれの選挙も行われず、大統領の施策を追認するだけの役割しかもたされていない。2008年5月、こうした専制的支配に反対する野党が連合してエリトリア民主同盟(EDA)を結成した。
 政府は過剰な援助を嫌い、「自分でできることは自分でやる」をモットーに自助努力を掲げながらも、独立紛争で荒廃した国家再建のため、西側諸国との関係改善を重視してきた。また近隣諸国との善隣友好を目ざし、エチオピアとの関係も良好であった。しかし1998年5月、新通貨ナクファの導入や、内陸国となったエチオピアの海への出入口であるアッサブ港の使用料などエリトリアの分離をめぐる経済的な確執などを背景に、帰属が不明確であったエチオピアとの国境地帯についての紛争が勃発(ぼっぱつ)した。
 両国軍の戦闘は首都への空爆の応酬にまで発展したが、2000年6月にOAU(アフリカ統一機構。2002年にアフリカ連合=AUに改組)の調停による休戦合意を経て、同年12月には包括的和平協定が調印された。停戦監視のために国連PKOのエチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)が展開、2002年4月には国境線の画定(地図上)も行われたが、その後も緊張状態が続いた。ほかにもスーダンやジブチとの国境紛争、イエメンとの紅海上の島の領有権争いなども根本的解決に至っていない。さらに2009年12月には、ソマリア内戦の反政府武装勢力を支援している(エリトリアは否定)として、国連安全保障理事会から同国への武器禁輸、貨物検査と押収、政治指導者や軍幹部の資産凍結などの制裁決議を受けた。2010年にはアメリカのアッサブ海軍基地設置の要求を拒否、非同盟路線を貫いた。[奥野保男]

経済・産業

人口のおよそ80%が生産性の低い農業(大麦や小麦、豆類といった穀物のほか野菜、コーヒー、綿花、タバコ、サイザル麻など)と牧畜(ウシ、ヒツジ、ヤギ、ラクダなど)に従事しているが、耕地は総面積のわずか2%にすぎない。食料の約70%を輸入や援助に頼っている。大理石や花崗(かこう)岩、岩塩、海塩を産し、金、銅、亜鉛、鉄鉱石など地下資源の埋蔵も知られているが未開発である。国内総生産(GDP)は18.7億米ドル、1人当りのGDPは363米ドル(いずれも名目。2008年度IMF推計)、産業別のGDP構成も運輸が30%以上を占め、その他のサービス業を含めた第三次産業部門が80%を超え、世界の最貧国の一つにも数えられている。
 この窮状から脱却するには、経済的自立、とりわけ30年にも及ぶ独立紛争と2年半にわたるエチオピアとの国境紛争によって破壊されたインフラ復旧と改善、100万を超すといわれる退役兵士や難民・避難民の帰還、救済・再定住が緊急の課題である。そのためには国内では足りない資本や技術の誘致が不可欠であり、それには国内の安定が先決条件となる。そのうえで天然の良港といわれる紅海岸のマッサワとアッサブ2港を活用しての近隣諸国を包含した広域的な経済の振興が何よりも望まれる。[奥野保男]

社会・文化

住民はティグリニャ(約48%)、ティグレ(約35%)、アファールなど九つのエスニック・グループ(民族集団)に分かれ、それぞれ民族語を使っているが、アラビア語、英語が共通語である。宗教はイスラム教(ほとんどがスンニー派)とエリトリア正教(コプト派キリスト教)の教徒がほぼ半数ずつを占め、少数のローマ・カトリックとプロテスタントの信者がいる。
 義務教育年数は7歳から7年間で無料。2004年に教育改革の一環として国立アスマラ大学(1958年に創立)を改組し、工、農、医、保健、技術、海洋、人文社会の7単科大学が設けられた。
 報道の自由度に関しては、2007年10月の国際ジャーナリスト組織、国境なき記者団の世界ランキングによると、政府が拘束中の記者4人が死亡したなどの理由で最下位(173位。1位はアイスランド、アメリカ48位、北朝鮮168位、日本37位)であった。2009年12月には、ケニアのナイロビで行われたサッカー国際大会に参加した代表選手25人のうち12人が政府の抑圧を嫌って帰国を拒み、ケニア政府に難民申請をした。こうした事件は2006年以降3回目である。[奥野保男]

日本との関係

日本は独立と同時に承認、外交関係を樹立した。2003年(平成15)5月に大使が着任(日本はケニア大使が兼任)。2005年12月に技術協力協定を結び、各種の技術協力のほか無償資金協力、食料援助、食料増産援助などを行っている。日本との貿易は、エリトリアからゴマ、羊皮などを輸出し、自動車、自動車部品、タイヤなどを輸入しているが、エリトリア側の輸入超過による著しい片貿易である。2003年9月、2008年5月にはアフリカ開発会議(TICAD)に出席のためイサイアス大統領が来日している。[奥野保男]

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精選版 日本国語大辞典

エリトリア
(Eritrea) アフリカ東部の国。紅海に面する。旧イタリア領。一九六二年エチオピアに統合され、九三年独立。首都アスマラ。

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旺文社世界史事典 三訂版

エリトリア
Eritrea
アフリカ北東部に位置し紅海に面する国。首都アスマラ
【略史】エリトリアの名は,古代ギリシア語で赤,すなわち紅海一帯をさす“エリュトゥライア”に由来。古来エチオピア領に属したが,紅海に面するという交易上の重要性から,外国勢力の侵入に絶えずさらされた。16〜19世紀,沿海部はオスマン帝国の支配下に置かれたが,内陸部にはいくつものキリスト教王国が分立していた。1890年イタリアの植民地となる。1936年エチオピアを併合したイタリアに対して第二次世界大戦中イギリスが出兵した結果,42年よりイギリスの保護領となる。
【第二次世界大戦後と独立】1952年国連決議によりエチオピアと連邦を形成したが,62年エチオピアに強制併合される。以来,エリトリア人民解放戦線(EPLF)などによる独立闘争が展開される。1991年5月のエチオピアのメンギスツ政権崩壊とともに,同月EPLFが臨時政府樹立を宣言。1993年4月の国連監視下での住民投票の結果,5月独立を達成。1997年新憲法を採択。1998年エチオピアとの間で国境紛争が起こり,翌99年になっても武力衝突が続いている。

出典:旺文社世界史事典 三訂版
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